uncleyieのア・デイ・イン・ザ・ライフ
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シューベルト ピアノ五重奏曲『鱒』を聴く
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 シューベルトのピアノ五重奏曲 イ長調 D.667『ます』という曲がある。編成はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コンラトラバスの弦楽にピアノが加わるので五重奏曲なのである。全5楽章で第4楽章に有名な歌曲『鱒』の旋律を含んだ変奏曲が組み込まれているので、通称『鱒』という名称で呼ばれている室内楽曲である。

 そもそも歌曲の『鱒』が作曲されたのは1817年、シューベルトが20歳の時で、その2年後の1819年、22歳のシューベルトは友人で歌手のフォーグルにしたがって北オーストリアのシュタイル地方を旅行した。そこはフォーグルの故郷であり、ほど近いリンツには、大勢の音楽好きがいて、都合がよければモーツァルトの生地ザルツブルクまで足をのばそうという計画であった。フォーグルは早くからシューベルトの才能を認めていて、出来るだけの機会を利用してシューベルトを世に出すように務めていた。この頃、フォーグルは既に当時で一流の声楽家であった。フォーグルは背の高い美男子の声楽家で、一方、シューベルトは背が低く猫背の眼鏡をかけた風貌の冴えない男であった。このように何ともつりあいのとれぬ2人連れが北西オーストリアを旅していたのである。

 7月13日にシュタイルの町に着いていて、この町を出発したのは9月15日だったという。この間、2人はシュタイルとリンツを訪れ大歓迎を受けたという話が伝わっている。昼間は音楽好きの人々に取り囲まれピクニック、夜は2人の演奏が行なわれ拍手喝采であった。

 さて、この旅行中、彼らはジルヴェスター・パウムガルトナーという鉱山業者にたいへんお世話になった。パウムガルトナーは音楽が好きでチェロも巧に弾きこなし自宅で音楽の集いをたびたび開催していた。そんな折、パウムガルトナーはシューベルトが作曲した歌曲『鱒』を大いに気に入っていたので、これを主題とする変奏曲をつくるようにすすめたという。でもこの話は、最近では眉唾ものだろうと言われている。

 とにかく歌曲『鱒』の作曲から2年後の1819年にピアノ五重奏曲『鱒』は作曲された。この曲は22歳の若きシューベルトが、空気の清澄な土地で人々から愛され、何の心配もなく暮らすときには、人生の美しい側面しか見えなくなり、全てが楽しい美しいものになる。結局、この生活感情をのこるとこなく表現したのがこの曲である。第1楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ。古典的ソナタ形式によって、63小節まで第1主題、その後、113小節までが第2主題、それ以下がコーダである。第2楽章はアンダンテ。ピアノが前面に出てくる楽章で、ABABという簡単な歌曲形式をもって成立する楽章である。第3楽章はスケルツォで、楽章の途中に何度か転調するのが特徴である。第4楽章が主題と変奏である。この楽章に歌曲『鱒』の旋律が主題としてヴァイオリンで奏でられ、ヴァイオリン以外の弦楽器が伴奏する。変奏に入ってからはピアノ、ヴィオラと続き、チェロとコントラバスが彩を加え、何とも美しい旋律である。第5楽章はアレグロ・ジュストである。ソナタ形式なのかロンド形式なのかよく判らない。でもフィナーレらしい楽章であり、シューベルトが5楽章形式の室内楽曲を何故、作曲したのか判りかねるが、モーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントが多楽章だったことを思えば、シューベルトがモーツァルトを意識していたのではないかとも思える。いずれにしても若き日のシューベルトが、如何にメロディメーカーだったかを窺える楽曲である。とにかく何かと鬱陶しい今の季節。シューベルトのこの曲を聴いていると実に涼しげである。

ピアノ五重奏曲『鱒』の第4楽章、主題と変奏を演奏する仲間達。しかし貴重な映像である。チェロが若くして急逝した天才女性チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレ。ピアノがジャクリーヌ・デュ・プレの元夫で、前シカゴ交響楽団音楽監督、現ベルリン国立歌劇場音楽監督のダニエル・バレンボイムである。


シューマンのピアノ協奏曲を聴く
   シューマン ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
 マルタ・アリゲリッチ(ピアノ)、指揮ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
 ワシントン・ナショナル交響楽団
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 その昔、人気のあったテレビの特撮ドラマ『ウルトラセブン』の最終回で、主人公のモロボシ・ダンが突如として友里アンヌ隊員に告白する。

「アンヌ、僕はМ78星雲からやって来た宇宙人なんだ」

 アンヌ隊員は驚いて突然、タターンタターンタターンタタタタンタタンタンタンとシューマンのピアノ協奏曲が流れるのだった。だからシューマンのピアノ協奏曲というのは、知る人ぞ知る名曲ということになる。

 一般的にシューマンはピアノの独奏曲の作曲家として有名である。知名度の高い『トロイメライ』が含まれる『子供の情景』を始め、『クライスレリアーナ』『幻想小曲集』『子供のためのアルバム』『森の情景』等、また歌曲の作曲も多くて『ミルテの花』『女の愛と生涯』や小品も多い。だからオーケストラをバックにしたピアノ協奏曲というのは、珍しく、シューマンのピアノ協奏曲はこの一曲しか存在しない。

 当初、シューマンは『ピアノと管弦楽のための幻想曲』として作曲し、後に間奏曲とフィナーレを加えて3楽章からなるピアノ協奏曲イ短調として完成させた。それは1845年、シューマン35歳の時で、曲の初演では妻のクララ・シューマンがピアノを弾き、指揮をメンデルスゾーンが務めたのである。

 シューマンは1810年生まれというからショパンと同年代ということになる。幼いときから音楽に親しんでいたが、家庭の事情で法学の道へ進む事となる。だが音楽の道が捨てきれず、20歳になって高名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに弟子入りする。つまりこのピアノ教師の娘がクララ・ヴィークで、後にロベルト・シューマンの妻となる女性であった。その後、シューマンはピアノ演奏家の道は残念し、作曲家として世に出て行くのであるが、彼の曲をピアニストでもあるクララが弾きつづける事となる。

 このような経緯があり、シューマンは作曲家として出発した頃はピアノ曲が多かったのである。その後、歌曲の作曲が増え、31歳で交響曲の作曲を始め、1841年交響曲第1番『春』を完成させた。つまり管弦楽の作曲に自信がつきだし、ようやく完成にこぎついたのがピアノ協奏曲だったのである。でも先ほど『ピアノと管弦楽のための幻想曲』として作曲された曲であると述べたが、4年後にはピアの協奏曲として生まれ変わっている。でも何故、シューマンはピアノ協奏曲に作り変えたのであろうか。

 一説には友人のメンデルスゾーンが作曲したピアノ協奏曲を聴いて刺激を受けたからだともいわれ、後に間奏曲とフィナーレが付け加えられたのに、曲全般を通して聴いても統一感があり、完成度の高いピアノ協奏曲として評価が高い。

 3楽章形式だが、1楽章はのっけからピアノの序奏で始まり、全体的にロマン主義的な叙情が漂い華やかな楽章である。かつて『ウルトラセブン』の最終回では、この第1楽章が使われドラマをより劇的にする演出効果を齎した。第2楽章と3楽章は連続して演奏され、間奏曲と題された2楽章から軽快な3楽章に転じて終わる。

 どちらかというとシューマンのオーケストレーションは地味だが、この曲は比較的に色鮮やかな音色である。でも残念ながら、この頃からシューマン自身、精神的におかしくなる兆候が見え出し、躁鬱病、精神状態の悪化などもあって自殺も計っている。その後、持ち直し彼を慕ってやってきた若者の面倒を見ている。その若者こそ、ヨハネス・ブラームスである。

 ヨハネス・ブラームスの才能を見抜き、彼の将来を見透かしていたが、ブラームスが作曲家として独り立ちする前に精神病院に入院するほど精神が病んでいた。やがて病も快復することもなく1856年、46歳でシューマンはこの世を去る。その後、彼の名声を確立するために妻クララは、夫の作曲した曲を積極的に弾き続け、その後40年も生き続けるが、何故か、ブラームスとの親交が深くなり、2人は男女関係があるとまで言われるが、真相のほどはわからない。結局、短命に終わったロベルト・シューマンが亡くなってから、クララは40年後の1896年に亡くなり、ブラームスは41年後の1897年に亡くなる。何とも意味ありげな話ではあるが、晩年のシューマンは精神障害に苛まれていたにも拘らず遺言を残している。それは「私は知っている」だった・・・・・・・・。

シューマンのピアノ協奏曲の演奏。マルタ・アリゲリッチ(ピアノ)、指揮リッカルド・シャイー


カラヤン生誕100年
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 今日、4月5日はヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100年にあたる日である。生誕100年といっても、当の本人は1989年に亡くなっているから生きている訳ではない。でも20世紀のカリスマ指揮者として帝王として、未だに圧倒的な人気を誇る指揮者であるだけに、カラヤン生誕100年だとか何とかいってクラシック音楽界は姦しい。

 ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年4月5日、オーストリア=ハンガリー帝国のザルツブルクで生まれた。ザルツブルクというとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも生まれた所だけに、音楽は盛んである。カラヤンはそんなザルツブルクの貴族の一家に生まれたのである。ギリシャ系とかアルメニア系だとか色々いわれているが詳細は解らない。地元のモーツァルテウム音楽院で学び、若くしてオペラ指揮者としてデビューし、1934年にアーヘン市立歌劇場の音楽監督に就任する。1938年にはベルリンに進出し、翌年にはベルリン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座でオペラの指揮者として活躍。1946年にはナチスの党員であったため、一時期、公開演奏停止処分を受けた。だが1948年にはウィーン交響楽団の首席指揮者。1949年にはウィーン楽友協会の音楽監督に就任。この頃は、イギリスのフィルハーモニア管弦楽団とレコード録音を盛んに行い、カラヤンの知名度は格段に拡がっていく。そして、1955年には急逝したヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、音楽監督の座を射止め、この年から亡くなるまでクラシック音楽界の帝王として、その地位に留まることとなる。

 以上、カラヤンの簡単な略歴を追ってみたが、私がクラシック音楽に興味を持ち出した頃には、すでにカラヤンの名は轟きわたっていた。帝王、カリスマ、君主・・・・色々といわれ、とにかく妥協を許さないほどオーケストラ団員への要求は厳しかったという。そもそもカラヤンが世界最高峰のベルリン・フィルの首席指揮者の地位を得るまで、ベルリン・フィル内では一悶着あったという。

 1955年、フルトヴェングラーとベルリン・フィルによるアメリカ演奏旅行が決まっていた。ところが1954年にフルトヴェングラーが逝去した。ベルリン・フィル側は後継者を急いで探さねば成らなかった。候補としてはカール・ベーム、セルジウ・チェリビダッケ、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム・・・・・。そんな中で人気急上昇中のカラヤンの名前も当然のようにあった。団員の多くもカラヤンが後継者として引き継いでくれれば満足だった。だが、カラヤンは終身首席指揮者の地位に拘った。前任のフルトヴェングラーの亡霊があったのかもしれない。ましてやナチス党員だったカラヤンは、アメリカ演奏旅行は危険な賭けであった。元ナチス党員という色眼鏡で見られやしないか、フルトヴェングラーと比較されないか、それによりベルリン・フィルの首席指揮者の地位から転落という結果も有り得るのを危惧したのである。つまり終身ベルリン・フィルの首席指揮者である保証が欲しかったのである。結局、ベルリン・フィル側は、カラヤンの要求を呑むしかなく、アメリカ演奏旅行に旅立ったのである。

 アメリカ演奏旅行は成功したが、一部の人の反感を買い、ニューヨークのカーネギー・ホールの前では、抗議の行進も行われた。600万人のユダヤ人死者を祈念する横断幕も張られたという。でもコンサートは大成功で、アメリカの聴衆はカラヤンとベルリン・フィルに大讃辞を送ったのである。これによりカラヤンはベルリンの音楽界に帝王として君臨し続けるのである。

 カラヤンの音楽作りは徹底していて、団員に過酷な要求をつきつけた。オーケストラの団員に合奏の正確さを求め、音を徹底的に磨き上げ、洗練された音色を目指すのだった。レガートの使用により流麗で典雅な輝かしい音質を追求することにより、艶やかな色彩感あふれる音色を生み出したといわれる。確かにフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルよりも音色が鮮やかになった。そして、レパートリーが広く、ドイツ、オーストリアの伝統音楽からチャイコフスキー、ドヴォルザーク、またはシベリウス、グリーグ等の北欧音楽、ヴェルディ、プッチーニのイタリア音楽、シェーンベルク、ウェーベルン等の新ウィーン楽派まで演奏するというから驚く。それは、かつてのフルトヴェングラーが、独墺系音楽を中心に演奏していたのとは違い、ベルリン・フィルにとって大きな変革となった。

 またカラヤンの指揮は、ある意味で格好が良かった。最初から観られることを意識してタクトを振っていたのかもしれない。目を閉じ背筋を伸ばし、棒を正面に向けず大きく振り下ろしをする。この独自のスタイルが人気を呼び、カラヤンの指揮を真似しようとする指揮者志望の青年も世界中にいたぐらいだ(小澤征爾など多数)。・・・・彼はナルシストだったのだろう。写真を片側からしか撮らせず、横顔には自信を持っていたという。自分の指揮に陶酔しているのかもしれない。

 ここまでは一般的なカラヤン論だが、私もカラヤン指揮の演奏を相当数聴いてきた。私が感じるところでは、カラヤンは駄作がないというが、つまらない演奏もある。彼のベートーヴェン演奏はあまり好きにはなれない。それはブラームス、シューマンにも言えることであるが、重厚さが足りなく即物的である。やはりカラヤンよりはフルトヴェングラーの方が私の好みに合っている。でもチャイコフスキー、ドヴォルザークは好きだ。チャイコフスキーの『4番』『5番』『悲愴』『弦楽セレナード』、ドヴォルザーク『新世界』、このような色彩の溢れる曲はカラヤンは巧だ。それにワルツやポルカ、オペラ、軽い曲はそつなくこなす。このように、ありとあらゆる曲に対応できる数少ない指揮者の1人であり、その何れもが水準以上であることは認めざるを得ない。

 中でも私が素晴らしいと思うのはリヒャルト・シュトラウスの演奏である。どのCDを聴いても、カラヤンの指揮するリヒャルト・シュトラウスは見事である。スケールが大きく細部にわたってまで配慮がなされていて聴き惚れてしまう。『アルプス交響曲』『ドン・ファン』『死と変容』『ドン・キホーテ』『ツァラトゥストラはかく語りき』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』・・・・・どれも良いが、最も素晴らしいのは『英雄の生涯』ではないだろうか・・・・。一般的に85年にベルリン・フィルの演奏で録音された『英雄の生涯』の評判が高いが、私は1974年にベルリン・フィルと録音した『英雄の生涯』の演奏の方が好きである。全体的なスケールは85年版に譲るが、肌理の細かさで緩やかな弦楽器が冴え渡っている74年版の方に軍配を上げたい。さて、あなたはカラヤンの録音された曲では、どの曲がお好みですか?

 リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』の冒頭 リハーサル風景のカラヤン


 チャイコフスキー『交響曲第5番〜第4楽章』


 ドヴォルザーク『新世界より〜第4楽章』


 
モーツァルトのピアノ協奏曲K.466を聴く
 モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466のCD
 フリードリッヒ・グルダ(ピアノ)、指揮クラウディオ・アバド ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
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 数多いモーツァルトの曲で、ピアノ協奏曲は重要な位置を占める。ことに20番以降、ケッヘル番号で言うと466番より後の曲は何れも傑作ぞろいである。そんな中で、この20番のニ短調協奏曲は人気が高い。それはモーツァルトが最初に書いた短調のピアノ協奏曲であり、2曲しかない短調のピアノ協奏曲の中でも最初に作曲されたものであるからかもしれない。だが、そんな解説を付け加えなくても、K.466のニ短調協奏曲は名曲である。全3楽章で長さにすると30分程度の曲であるが、曲全体を緊張感のある不安な旋律で覆いつくされていて、何処か薄幸の天才のその後を案じているように聴こえるから不思議である。

 この曲は1785年に作曲されているが、1785年というとモーツァルト29歳の頃の作品である。モーツァルトは1781年に故郷ザルツブルグを追い出され、ウィーンで生活を送ることとなる。この頃の生活費は、貴族、社交界でのコンサートであり、モーツァルトは生涯で21曲のピアノ協奏曲を作ることとなる。

 曲は第1楽章が397小節、第2楽章が162小節、第3楽章が429小節あり、第1楽章のアレグロ、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンがユニゾンで最初の8小節を弾くと、金管と木管がそこに加わり、やがて不安な第一主題の旋律が奏でられる。ピアノが加わるのは77小節目からで、哀愁のある悲しげな旋律である。この当時のモーツァルトの私生活を垣間見るようで、曲そのものが重苦しい。それでいて優雅であり高貴なのはモーツァルトたる所以であろうか。第2楽章はピアノ・ソロで始まる。この楽章の冒頭部分が映画『アマデウス』のエンディングに使われて、随分と有名になったもので、モーツァルトらしさが散りばめられ典雅でいて郷愁を誘う癒されるメロディである。第3楽章は、ロンドと呼ばれる楽章。軽快な第一主題がピアノで奏でられ、発展して91小節まで続き、92小節目からは第二主題が現れる。ソナタ形式なので主題のあと、展開部が続き、カデンツァが入り、第一主題、第二主題が僅かに再現され終結へと向う。

 こうして文章で書くと、どんな曲なのかよく解らない。それがモーツァルトなのかもしれないが、この神童の作る音楽というものは、私のような浅学非才の者から見ると想像を超えた曲の展開が続くので、何度聴いても新たな発見がある。考えてみればモーツァルトというのは、僅か35年の人生で600以上もの曲を残しているのだから、そんじゅうそこらの音楽家達とは比較もできないだろけども、初めて聴く曲でも、ああモーツァルトだということが解る曲が多い。それでいて全ての曲が似ているようで似ていない。おそらく彼には考えて作ったという曲が存在しないのではないだろうか・・・・。これはまさしく選ばれし者の神の使いかもしれない・・・。そう感じるのがモーツァルトの音楽なのである。

 ピアノ協奏曲第20番第1楽章の演奏。フリードリッヒ・グルダ(ピアノ、指揮)


 ピアノ協奏曲第20番第2楽章の演奏。フリードリッヒ・グルダ(ピアノ、指揮)



ヴェルディのオペラ『アイーダ』を観る
 『アイーダ』のDVD ジェームズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団
 アプリーレ・ミッロ、プラシド・ドミンゴ、ドローラ・ツァーイック、
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 ジュゼッペ・ヴェルディというとどんなイメージがあるだろうか。おそらくオペラの作曲家といったイメージではないだろうか。とにかくオペラ(歌劇)作品が多い。『ナブッコ』『エルナーニ』『マノン・レスコー』『リゴリット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『運命の力』『ファルスタッフ』・・・・そして、『アイーダ』がある。

 『アイーダ』というのは、ヴェルディが1871年に初演したオペラで、古代エジプトの話である。

 古代エジプトの首都メンフィスで、エジプトの王女アムネリアスは若きラムダスに恋心を抱いていた。だがラムダスはアイーダと相思相愛であった。アイーダはエチオピアの女王であるが、身を隠し囚われの身となりアムネリアスの奴隷として扱われていた。ところが、ラダメスがエチオピア遠征の将軍として任命され、戦いに出発することになった。アイーダは祖国と恋人という二つの愛の板挟みに苦しむこととなる。さあ、エチオピアの運命は、ラダメスとアイーダは、どうなるのか・・・。

 ヴェルディて、オペラ以外の曲も作っている。宗教曲や声楽曲、器楽曲・・・・このようなものもあるが、一般的にいってオペラが目立っている作曲家である。何故だろうかと考えたが、言えることはヴェルディがイタリア人だからとしか言いようがない。

 思えば音楽用語というのはイタリア語である。アンダンテ、カンタービレ、ビバーチェ、アレグロ・ノン・トロッポ、アダージョ、フォルテ、ピアニシモ、ポコ・ア・ポコ、アッチェレランド・・・・。つまり現在に通じる西洋音楽は、グレゴリオ聖歌のような宗教音楽が中心になって発展してきた。それらはローマ・カトリックと関係が深く、そのためイタリア語が音楽用語として使われてきたのだろう。それで、イタリアというとどうしても歌の国、カンタービレの国で、器楽曲以上に歌が好きな国民の国という気がする。だからオペラもイタリアで始まったのではないだろうか。

 このように音楽というのは、声楽が中心となって発展の歴史を辿ってきたのである。器楽曲が中心になるのは、もっと後代のことで、交響曲なんていうのは、オペラが始まる前のざわざわした観客席を静めるために演奏されていたものであって、交響曲が演奏会の中心に持ってこられるようになるのは、ベートーヴェンの時代になってからではないだろうか。そういうことで、かつては声楽が中心だった西洋音楽が、器楽曲に取って代わられる様になると、オペラ等はクラシック音楽と兄弟のような関係でありながら、オペラは独自で上演されるようになった。こうして多くのオペラがイタリア人作曲家の手によって作曲されるようになりオペラの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの登場となる。

 でもオペラは嫌いという人は多い。肥った女が出てきて大きな口を開けて金きり声でアアア〜〜〜〜〜と叫んでいるような印象が強いからではないだろうか。それにオペラはクサイといわれる。確かにクサイかもしれない。大袈裟でありテンポも鈍い。でも考えてみるとこれほど暇と金がかかった舞台劇というものは他に存在しないのではないだろうか。オペラというのは台本があり、曲があり、演技があり、それに相応しい舞台装置と衣装、それにプロの大オーケストラが奏でる演奏をバックにして、プロの歌手達が演技をしながら歌うのである。つまり総合芸術であるのだ。よくミュージカルは好きだが、オペラは嫌いだという女性が時々見受けられる。私に言わせれば実に勿体無い。

 ミュージカルが理解できるのなら、何故、オペラが理解できないといわせてもらう。ミュージカルはオペラから派生した一つの芸術なのであって、アメリカで生まれた現在オペラと言ってもいいぐらいだ。ただ、物語が現在の話なので判りやすいと言うだけである。その点、オペラは現在の話ではないので、判りづらいかもしれないが、これだって時代背景や登場人物の設定を吟味して頭の中で整理さえできていれば、これほど楽しい舞台劇はないと思う。もしヴェルディがダメならビゼーの『カルメン』なんて比較的入り易いオペラであるし、音楽も一度は聴いたことがある曲ばかりで形成されている。だから一度、DVDでも買って来て、楽しんでみては如何かと思うのである。

 歌劇『アイーダ』の一場面、『凱旋行進曲』が奏でられる。


バッハを聴く・・・・・無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番
 バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番〜第3番の入ったCD アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)
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 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001〜1006は、ソナタとパルティータの3曲ずつ計6曲からなり、何れもヴァイオリンの独奏の曲なのであるが、ソナタの方は緩急緩急の4楽章からなり、第2楽章にフーガをおいている。それに対してパルティータはアルマンド、クーランド、サラバンド、ジーグ、ルール、ガヴォット、メヌエット、ブーレといった舞曲を集めた形式のもので、これら6曲からなる無伴奏ヴァイオリンの曲は、大バッハことヨハン・セバスチャン・バッハ35歳の頃に作曲されたという。

 バッハが35歳の頃というと1720年であるから、ワイマールの宮廷オルガン奏者を辞職して、アンハルト・ケーテン公、レオポルト伯爵家の宮廷楽長となってから3年後のことになる。この時代に無伴奏ヴァイオリンのための6曲が作曲されているのであるが、この時期のバッハは最も脂が乗り切っている頃である。それというのもワイマール時代のように教会音楽やオルガン曲を作る義務がなくなったことで、就縛から解き放され、泉の如く湧き出る才能をあらゆる楽器のための作曲に注ぐことが自由に出来るようになったからであろう。だからこの時期、バッハのオルガン曲以外の重要な曲のほとんどが作曲されている。例えば『無伴奏チェロ組曲』『ブランデンブルグ協奏曲』『フランス組曲』『イギリス組曲』『管弦楽組曲』等、バッハの代表的な曲の多くは、このケーテン時代と言われる頃に作曲されている。そんな中で無伴奏ヴァイオリンのためのパルテイータは優れた楽曲である。3曲あるが最も有名なのが無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004だろう。

 全5楽章からなり、1楽章アルマンド、2楽章クーランド、3楽章サラバンド、4楽章ジーグ、5楽章シャコンヌという形式である。中でも5楽章のシャコンヌはバッハの数ある器楽曲の中でも傑作とされ、単独で演奏されることも多く管弦楽版、ピアノ版、ギター版というのもある。シャコンヌはスペインに昔からある3拍子の舞曲であるが、バッハはここで主題と30の変奏で構成させ、8小節単位で30の変奏を取り入れている。重厚な中にも華やかさのある崇高な楽曲である。私はシャコンヌを聴くと何時も体がシャキと引き締る気がする。やはりバッハは偉大成り、流石、音楽の父である。 

 『シャコンヌ』を弾くヤッシャ・ハイフェッツ