
和泉守兼定が一閃するところ血の海と化す。幕末の京都でその名を轟かした新撰組副長・土方歳三の生涯を描いた司馬遼太郎の時代小説である。
新撰組というと人はどのようなイメージを持っているのだろうか。人斬り集団だとか、壬生の狼だとか、坂本龍馬の敵だとか、明治維新を遅らせただとか、時代遅れの成り上がり侍だとか、けして良いイメージを持ってない人は多いと思う。でもけして彼らは野卑な暴力集団ではなく、ただ幕府方の京都守護職としての任務を遂行していた素朴な連中に過ぎないのだ。そういった新撰組の中で、隊を統率するがために自ら命を張った男、それが土方歳三である。
江戸の幕末時代、武州は石田村(現・東京都日野市)で「バラガキのトシ」と呼ばれた土方歳三は薬の行商の傍ら喧嘩に明け暮れる毎日であった。歳三の家は農家ながら豊な家であったが、家伝の石田散薬という骨折、打身に効く秘薬を歳三が売り歩いていた。その一方で町々の道場に立ち寄って剣術の修行をしていたのである。やがて江戸の柳町にある天然理心流・近藤道場に頻繁に出入りするようになり、そこの師範代となる。道場主は近藤勇である。また若手の師範代として沖田総司がいた。
いわば近藤道場は江戸の数ある道場の中では三流道場で経営も苦しかった。こんな近藤道場の連中が気に入った歳三は、道場主の近藤とは兄弟のような間柄であり、ここから新撰組を組織して訣別するまで深い深い縁で結ばれるようになる。ところで、ここで新撰組結成からその終焉までを書き綴っていてはスペースがいくらあっても書ききれない。ここでは司馬遼太郎『燃えよ剣』を読んだ上で記事にしているのだから、簡単に進めるとする。
新撰組というのはご存知だと思うが、幕末の頃、京都に潜伏した過激な尊王攘夷論者や不逞浪人の取り締まりを目的に結成されたいわば治安部隊のことである。江戸幕府方の会津藩の預かりで、隊の多くは関東の農民上がりである。そもそも文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩の郷士・清河八郎の呼びかけに乗じて集まった浪士隊の一つが新撰組へと発展したのだが、その中心になったのが近藤勇が経営する道場・試衛館に出入りしていた連中(土方歳三、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、山南敬助、斉藤一、原田左之助)である。しかし、実働は僅か5年ほどで、次第に薩長を中心とする勢力に押され、滅び行く幕府と共に消え去る運命にあったというしかなく、それでいて、現在、こんなにテレビや映画、小説などで採り上げられるようになったのも戦後のことである。
明治維新の後、新政府がスタートしたが、新撰組は長い間、テロ集団、人斬り集団として日本史の中でアンチヒーローとして扱われてきた。それは明治政府の重鎮達は主に、長州、薩摩、土佐出身者が多く、彼らの政的としての新撰組だったからである。だから新撰組の生き残りであった永倉新八は名を変え、北海道で細々と大正時代まで暮らしていたいう事実があり、新撰組が表舞台に出てくるようになるのは、彰義隊員の孫だった子母沢寛が小説に書いてからであろう。
さて、この『燃えよ剣』は、司馬遼太郎の想像による部分がかなり含まれていて、彼が作り上げた剣敵・七里研之助を始め情人・お雪など小説を形成する上で欠かせない脇役をいたるところで登場させているが、二人とも重要なキーパーソンとなっている。でも独特の司馬史観というのがあって、近藤勇以下、相当の思い入れがあるのか、何れも人間性が判りそうなほど、鮮明に各自の性格まで表現しきっていいる。ただどこまでが事実であったか、果たしてそのような人物であったのか、飽く迄も小説の中で表現されている人物像であるということを頭の中に入れとおかないといけないであろう。よくNHKの大河ドラマを見て、あれが真実であったかのように思われている人を時々、見受けられるが、あれはドラマの構成上、面白くするがためにある程度、作家なり脚本家なりが想像も入れて付け加えられた部分もあり、必ずしも真実であったとはいいがたい。だから司馬遼太郎あたりの歴史小説の大家ともなると、書いていることが全て、本当にあった出来事だと信じている御仁が世間には少なからずいらっしゃるので、取り敢えず口を挟んでおくことにするが、それにしても、この小説からは土方歳三の人間ぶり、男臭さがプンプンと匂ってくるではないか。新撰組というのは近藤勇が局長であることは判りきった事実なのだが、『燃えよ剣』を読んでいると、新撰組において土方歳三の持つ意味が近藤以上に大きいことに気がつく。
近藤も土方と同じ多摩の農民の出であるが、武士になりくて、出世したくて道場をたたんで新撰組となったが、その近藤を支える役目の副長である土方が、実のところ実質的に新撰組を統率していたとしたら、近藤ファンはどう思うかしれないが、出世を夢見て、幕府の幕臣の末端にまで登りつめた近藤の側で、土方は生れついての喧嘩屋である。ただ戦を求めて、京都から、江戸、さらには奥州、函館と新撰組のただ1人の生き残りとして、最後まで戦うことを選んだ。彼には出世だの世の中の情勢などどうでもよかった。
当初、試衛館道場時代の仲間と共に、新撰組として動き始め、池田屋騒動での一件から、幕府方に認められ、やがてその名が知れ渡るようになろうとも、土方歳三は最後まで土方歳三であった。いわゆる「バラガキのトシ」であった。新撰組も時代の流れに逆らえず、翻弄され、一人抜け、二人抜け、何時の間にか、土方歳三の周りには誰もいなくなった。それでも彼は、逃げず、投降せず、最後まで官軍と戦う道を選んだ。たとえ馬鹿げていると思っても、土方歳三は世界の大局なんかどうでもいい。最後まで戦を求めては死を選ぶ。函館まで戊辰戦争を戦った新撰組幹部のたった一人の生き残りが土方歳三である。江戸幕府の生き残りである函館政府の幹部達の中で、榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志といった連中は新政府軍に投降し後年に新政府に仕えているが、土方歳三だけが戦死した。明治2年(1869年)5月11日(旧暦)、函館の一本木関門付近で、新政府軍の一斉射撃を受け、馬から転落してとうとう亡くなった。35歳という若さである。
ところで司馬遼太郎が何故、新撰組の大勢の中から土方歳三を選んで小説の主人公にしたかのか判らないが、近藤のような無骨な顔に反比例していながらも一応の接客上手、出世指向の人間ではなく、絶えず2番手の位置から、自分の意の向くままに動くよう隊の規律と統率を固めた新撰組で、己の意志をぶつけることの出来た土方歳三という人物像の方が魅力的に見えたのかもしれない。鬼の土方ともいわれ、新撰組での厳しすぎる局中法度書も土方の案によるもので、士道に背くまじきこと、局を脱することを許さずといったことが取り決めとしてあり、これらに背いた者は切腹の刑が待っていたため、新撰組を抜け出そうとした者も数知れず粛清も多く、それでいて鬼の土方であり続けた。つまり新撰組の中で、組長の近藤を立てる意味で彼は嫌われ続けなくてはならなかったのだ。
いわば妥協を許さない男・土方歳三の生き様が司馬遼太郎の目に留まったのかもしれないが、冷酷無比なように思える土方歳三を妙に人間臭く描いていて、そのことがただ一つの救いなのかもしれない。