uncleyieのア・デイ・イン・ザ・ライフ
趣味を中心に人生の日々を綴ります。時にはボヤくこともあります。
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uncleyieと申します。。ここでは趣味を中心に色々と書いていきたいと思います。音楽、映画を中心に、本、美術からスポーツ、競馬、芸能、時には時事問題まで、幅広い分野において話題に触れるつもりです。  またコメントなど頂ければ幸いです。当ブログはリンクフりーですのでよろしくお願いします。    なお、誹謗、中傷、冷やかしめいたコメントは遠慮なく削除させてもらいます。ご了承ください。

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エルトン・ジョンのアルバムを聴く『エルトン・ジョン』
 エルトン・ジョン2枚目のアルバム
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 エルトン・ジョン初来日コンサート・ツアーの時のチケット(1971年10月7日)
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 1997年9月、イギリスのダイアナ元皇太妃が自動車事故で急死し、追悼式があったが、その時テレビを観ていて驚いた。何故なら中年のあまり風采の冴えない小太りの男が追悼歌を歌っていたからである。誰だとよく見たらそれはエルトン・ジョンであったから二度びっくりである。かつてアルコール依存症、薬物依存症で低迷していたエルトン・ジョンだと知ると万感の思いがあった。

 思えば私がエルトン・ジョンをよく聴いていたのは高校生の頃だった。当初はあまり好きではなかったが、その頃、社会人になったばかりの姉が何処で仕入れた情報か知らないけれど、エルトン・ジョンが良いから聴けといいと言い出した。確か1970年にエルトン・ジョンの『僕の歌は君の歌(Your Song)』という歌が流行っていた。ピアノのイントロで始まりたおやかな優しい声で 
〜It's a little bit funny, this felling inside  I'm not one of those, who can casily hide〜 と歌われるエルトン・ジョンの最初のビッグヒット曲である。

 また間もなくして映画『フレンズ』が上映されていて、その主題曲をエルトン・ジョンが歌っていた。それでエルトン・ジョンはすっかり日本でも名が知れたミュージシャンになっていたと思う。 でも私はさほど好きではなかったが、エルトン・ジョンの2枚目のアルバムが出たというので姉は私に買え買えと催促する。それなら自分で買えばいいのにと思うけども、「今は金が無い」という。それなら高校生の私も金が無いのは同然である。でも姉が好きな音楽傾向は判っていたので、はずれは無いだろうと思い買ったアルバムがエルトン・ジョン自身2枚目の当アルバムである。

 エルトン・ジョンは1969年に『エンプティ・スカイ』というアルバムでデビューしていたが、ほとんど話題にもならなかった。だが2枚目の『エルトン・ジョン』が発売されるや、収録曲の『Your Song』が大ヒットし、一躍、人気アーティストとなった。自ら作曲しバラード調の曲からアップテンポの曲まで全般的にメロディアスで、特にバーニー・トーピンの詩と彼の曲とのバランスがよく「現代の吟遊詩人」「コンテンポラリー・ポップスの異端児」というキャッチ・フレーズが巧く時代とマッチしていたと感じるのである。また、あの頃はハード・ロックが全盛の時代で、メロディアスなポップスがだんだんと影を潜め、ポップスが過渡期にあったと思う。既にビートルズは解散していて、テクノポップスの台頭もあり新しい時代に洋楽は入っていた。だから私の姉が、「もう聴ききたい音楽はなくなってきた」と盛んに言っていた覚えがある。

 1971年秋だったが、そのエルトン・ジョンの初来日コンサートが東京と大阪で行なわれた。そして、早速、聴きに行くつもりでチケットを買おうと思い、夏にアルバイトで稼いだ金を工面していたら、姉が「お金を2人分出すから買って来て」と一万円を差し出した。何とも珍しいことがあるものだ。結局、私は姉とエルトン・ジョンのコンサートに行くことになった。

 当時、エルトン・ジョンは24歳の若者であった。でもステージに出てきたエルトン・ジョンは小柄で小太り、眼鏡をかけていて、今で言うキモメンの風采であった。でもピアノの前に座りピアノを奏でだし、よく通った声で歌を歌いだすと、まったく違う男に変身する。エルトン・ジョンはステージの上では輝いていた。コンサートは静かに始まったが、終盤で信じられないことが起こった。アップテンポの曲が続き(今となっては何を歌っていたのかよく覚えていない)、突然、エルトン・ジョンがピアノを弾いていたかと思うと、椅子を蹴飛ばして立ち上がりTシャツを脱ぎ、短パンだけの姿になった。胸毛が生えていて、お世辞にも恰好いいとはいえないが躍動していた。終いにはピアノの上で踊りながら歌いだしたので、聴衆は乗りに乗っている。私は唖然としたが隣の姉は喜んでいた。でもエルトン・ジョンにはこのような一面があることをその時に垣間見て、その後のエルトン・ジョンが変遷していく姿を伝え聞いてもあまり驚かなかった。

 最近はエルトン・ジョンどころか、私自身がポップスというか、ロックを聴かなくなったので、その後のことはよく知らない。だけどエルトン・ジョンがグラミー賞に輝いても、レコードの売り上げを記録しても、同姓愛者であることを公表して、同姓と結婚しても彼ならありうると感じた。つまりデビューした頃から、色んな要素を隠し持っていたエルトン・ジョンなのである。だから彼の多方面にわたる伝聞は、それもエルトン・ジョンであると再認識するしかないのである。

『Your Song』を歌う若き日のエルトン・ジョン。


 ダイアナ元皇太妃の追悼式で『Candle in the Wind』を歌うエルトン・ジョン。


クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバムを聴く『デジャ・ヴ』
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 この長い名前のグループは1960年代末期から1970年代初頭にかけて活躍した。結成は1969年で、バッファロー・スプリングフィールドにいたスティーヴン・スティルス、バーズにいたデヴィッド・クロスビー、ホリーズにいたグラハム・ナッシュの3人が集まってクロスビ゛ー、スティルス&ナッシュという名前でスタートした。そして早速、1969年8月のウッドストック・ロック・フェスティバルに出演し、この時は『青い目のジュディ』を唄い好評を博し、美しいハーモニーを披露した。その後、バッファロー・スプリングフィールドに在籍したニール・ヤングが加わりクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングという名前に成り、このアルバム『デジャ・ヴ』を1970年3月にリリースしたのである。

 この通称CSN&Yの『デジャ・ヴ』は才能のある4人の個性が集約された名盤で、発売されるや爆発的に売れたのである。収録曲は『Carry On』『Teach Your Children』『Almost Cut My Hair』『Helpless』『Woodstock』『Deja Vu』『Our House』『4+20』『Coutry Girl』『Everybody I Love You』の10曲で、冒頭の曲『キャリー・オン』はスティーヴン・スティルスの作で、アコースティック・サウンドとエレキ・サウンド混合の名曲で彼らのハーモニーがフルに発揮される。『ティーチ・ユア・チュールドレン』『アワ・ハウス』は何れもグラハム・ナッシュの曲で、『ティーチ・ユア・チュールドレン』は映画『小さな恋のメロディ』にも挿入された優しい曲である。『オールモスト・カット・マイ・ヘアー』『デジャ・ヴ』はデヴィッド・クロスビーの作になり、『ヘルプレス』はニール・ヤングの曲で、映画『いちご白書』の中で使われていた。ニール・ヤングの甲高い声が少し気になるが、印象に残る曲である。このように彼ら4人の曲が集合し完成したアルバムが『デジャ・ヴ』で、唯一、『ウッドストック』はジョニ・ミッチェルの作である。でもCSN&Yが演奏した、このアルバムに入っている『ウッドストック』が映画『ウッドストック』のタイトル曲に使われたのである。

 このように4人の名前をくっつけただけのグループ名を持つクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは、或る時は集まってある時はソロで活動するというグループのようなセッションのようなグループであった。要は仲間同士で何かをやりたい時は集まって、ソロでやりたければ各自勝手に活動をする。つまり縛られるのがきらいな連中がお互いの個性をぶつけるのには、このような関係でいる方が音楽活動を末永く続けられるのかもしれない。だからグループは解散したというのでもないが、1970年代中頃にはグループの活動を停止している。実際にはニール・ヤングは一年ほどの在籍期間だっのであるが、その後、CSN&Yとしては1988年と1999年にアルバムを発表している。結局、グループというよりも気心の知れた音楽仲間が忘れた頃に集まって曲を発表できればいいと、そのようなグループがクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングなのかもしれないが、彼らが影響を与えたミュージシャンは数多く、レッド・ツェッペリン、イーグルスらもその中に入るのであり、CSN&Yは活動期間も短く、実態のつかめないグループであるがロック史上に名を残すグループであることは確かだ。

 『青い目のジュディを演奏するクロスビー、スティルス&ナッシュ


 『ヘルプレス』を演奏するクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングとジョニ・ミッチェル

ジェファーソン・エアプレインを聴く
 ジェーファーソン・エアプレインのアルバム『シュールリアスティック・ピロー』
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 1960年代前半、ビートルズ旋風が吹き荒れ、それによりイギリスのポップ及びロック・グループが大挙してミュージック・シーンに登場した。概してそれらはリバプール・サウンドと呼ばれ、必ずしもリバプール出身のグループばかりではないが、そのように呼ばれていた。それらはまたアメリカの若者に影響を与え、その後、続々とアメリカにも新世代のグループが1960年代中頃から登場してくるのであった。そんな中、アメリカの西海岸サンフランシスコでも、リバプール同様、グループが雨後の筍のように出現した。それらはイギリスのリバプール・サウンドに対してシスコ・サウンドとかサンフランシスコ・サウンドと形容されるのであった。

 その頃の主なグループというとグレイトフル・デッド、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、モビー・グレイブ、スティーヴ・ミラー・バンド、ビッグ・ブラザース&ジ・ホールディング・カンパニー、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ・・・・・。そしてジェフーソン・エアプレインがいた。

 1967年の初夏に大ヒットした曲があった。『あなただけを(Somebody To Love)』である。

When the truth is found to be lies
And all the joy within you dies

Don't you want somebody to love ?
Don't you need somebody to love ?
Wouldn't you love somebody to love ?
You better find somebody to love, love

 イントロが無くパンチの効いた女性ヴォーカルの唄から曲が始まる。 女性ヴォーカリストのグレース・スリックの声がシャウトして、当時、とても新鮮に思えたものである。当時のジェファーソン・エアプレインのメンバーは、マーティン・ベイリン、ポール・カントナー、ジョーマ・ラドウィック・コーコネン、スペンサー・ドライデン、ジャック・キャサディ、グレース・スリックである。

 ジェーファーソン・エアプレインは1965年にメンバーが集まり1966年にデビューしたが、当初はさほど有名では無かった。それがオリジナル・メンバーであったシグニ・トリー・アンダーソンに代わり、グレース・スリックが入ったことで音楽に幅が出来、1967年に2枚目のアルバム『シュールリアスティック・ピロー』をリリースしたことにより、挿入曲『Somebody To Love』『White Rabbit』の2曲がヒットしたのである。これにより1967年8月、アルバム『シュールリアスティック・ピロー』は、アルバム売り上げでビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に次いで第2位になり、RIAA公認のミリオン・ダラーLPとなり、ジェファーソン・エアプレインはトップグループとして飛翔するのであった。

 その後、ジェファーソン・エアプレインは1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演し全米に名を轟かせ、やがてサイケデリック・ロックと言われる音楽一派の旗頭のような存在であった。さらに当時は泥沼化するベトナム戦争の真っ只中の時代である。またジェファーソン・エアプレインは、反体制メッセンジャーの代弁者としてのグループとして存在性を増し、グループの頂点を迎えるが、1972年にグループが解散してしまう。

 しかし新たにメンバーの一部が代わりジェファーソン・スターシップとして活動する。でも現在でも存在するジェファーソン・スターシップというのは解散と再結成を数度繰り返しメンバーも随分と入れ代わっている。もはやサンフランシスコ・サウンドだとかサイケデリック・サウンドだとかいわれ一世を風靡したジェファーソン・エアプレインとは似て非なるものといった趣がある。

 『White Rabbit』『あなただけを(Somebody to Love)』を唄うグレース・スリックとジェファーソン・エアプレイン。


 モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演した時のジェファーソン・エアプレイン。


ジミ・ヘンドリックスのアルバムを聴く・・・・・『アー・ユー・エクスペリエンス』
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 1970年の夏休み、映画『ウッドストック』が上映された。10代の少年だった私は暑い最中、映画館に足を運んだが、平日ということもあって館内はガラガラで、私以外ではサラリーマン風の人が3人と、ヒッピー風の若者が数人しかいなかった。でも映画は新鮮さも手伝って、海外のミュージシャンが奏でる音の饗宴に私は時間を忘れて見入っていた。

 『ウッドストック』とは、1969年8月15日から17日までの3日間、アメリカ・ニューヨーク州のウッドストックで繰り広げられたロック・フェスティバルで、観衆が40万人、参加したミュージシャンが30組以上。ざっと名前を挙げるだけでもカントリー・ジョー、ジョン・セバスチャン、ジョニ・ミッチェル、ラヴィ・シャンカール、アーロー・ガスリー、ジョーン・パエズ、サンタナ、スライ&ファミリー・ストーン、シャナナ、ジャニス・ジャップリン、CCR、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、テン・イヤーズ・アフター、クロスビー,スティルス&ナッシュと当時の著名なフォーク、ロック、ブルースといったミュージシャンが大勢参加した。参加していない大物といえば、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ドアーズ、サイモン&ガーファンクル・・・ぐらいで、これだけの音楽アーティストが集まれば、さぞや見応えがあっただろうと思う。そんなウッドストックのロック・フェスティバルで、トリを務めたのがジミ・ヘンドリックスである。

 ジミ・ヘンドリックスが登場したのは、3日目の朝で観衆の大勢が帰ってしまっていた。だから観衆の盛り上がりもいまひとつであったが、私は映画のスクリーンから映し出されるジミ・ヘンドリックスに圧倒されたことはいうまでもない。登場するやいきなり『アメリカ国歌』を演奏し始めたのである。それも右利き用のギターを逆さにして、右手で弦をおさえ、左で弦をつまびくというとんでもない奏法で演奏するのである。『アメリカ国歌』のメロディの途中に、爆弾の破裂音や機関銃の効果音をギターで弾きこなし、当時、泥沼化していたベトナム戦争への大いなる皮肉を表現したのであった。そして、『アメリカ国歌』に続いて、激しい重低音と共に『Purple Haze』のイントロが始まり・・・・・・・Purple Haze was in my brain,lately things don't seem the same,actin' funny but I don't know why 'scuse me while I kiss the sky.・・・・・とジミ・ヘンドリックスのシャウトする声が館内に轟いていて、これが噂のジミ・ヘンドリックスかと思った。とにかく歯でギターを弾いたり、ギターを壊したり燃やしたりするパフォーマンスと卓越したギター演奏でそれ以前から有名であった。でも今と違って、当時は海外のロック・ミュージシャンの動く映像に触れることは簡単にできない時代であり、ラジオでも流行のポップスはよく聴かれるが、ジミ・ヘンドリックスあたりになると、マニアックな者しか聴かない音楽であった。だから私がまともなジミ・ヘンドリックスの動く映像を観たのは、この時が最初であった。その後はテレビでもジミ・ヘンドリックスの映像を良く取り上げるようになっていたと思うが、残念ながら『ウッドストック』の映画が上映されてから、一ヵ月後の1970年9月13日、ジミ・ヘンドリックスは27歳という若さで亡くなった。

 死因はバルビツール酸系の睡眠薬の大量摂取ということであったが、同時にアルコールも飲んでいたという。でもそれ以前から、薬物常用者であり、死の真相は不明ともいわれている。

 ジミ・ヘンドリックスを初めて聴いたのは、1967年初頭だったろうか。曲は『Hey Joe』だった。それは、その頃のポップスにありがちな判り易いサウンドではなく、重い響きのブルースで、とにかく音が大きくて驚いたものである。1966年から1967年というと音楽が変わっていく時代であり、ビートルズが歴史的アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を出すことでも判るがポップス全体が大きく動いていた。そんな最中にジミ・ヘンドリックスは母国アメリカではなくイギリスでデビューしたのである。つまりR&B色の強いロックは、時代が求めていた音楽だったのかもしれない。だから時を同じくしてクリームやヴァニラ・ファッジ等もデビューしているし、ヤードバーズも健在であった。でも、そんな中でジミ・ヘンドリックスの存在は異色であった。

 まず彼は黒人であったこと。それにアメリカ人なのにイギリスでデビューしたこと。それと何よりも恐るべきギター・テクニックの持ち主であったこと。その頃、私は『ミュージック・ライフ』等の雑誌をよく読んでいたが、ジミ・ヘンドリックスは、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出されてイギリスへやって来て、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)というイギリスの白人とグループを組むという風変わりさ。また提供している音楽もハードなブルース色の強い難解なものであったこと。だから日本ではなかなか大衆受けしなかった。だが、イギリスで火がつきアメリカでもファンが増え、徐々にジミ・ヘンドリックスのギター演奏とパフォーマンスが評判を呼び、日本でもジミ・ヘンドリックスの特集が音楽雑誌で組まれるようになっていったように思う。

 彼はシアトルで1942年に生まれている。父は黒人で母はアメリカの先住民族だという。だから純粋な黒人ではない。子供時代は貧しくて多くのミュージシャン同様、彼もレコードを聴いて育ったという。15歳でギターを始め、主にR&B、ロックンロールを聴いて独学でギターを習得、10代はアマチュア・バンドでギターを弾いて、軍隊に入隊し、除隊後、プロとして音楽活動を開始。当初はバックミュージシャンだったが、この頃にB・B・キング、サム・クック、アイク&ティナ・ターナー、リトル・リチャード等と一緒に音楽ツアーに参加していた。そして、1966年夏、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出された事実は、先ほどに述べた通りである。

 その後、ジミ・ヘンドリックスは1969年になってエクリベリエンスを解散し、今度は黒人2人とバンド・オブ・ジプシーを結成するが、1970年の初頭に解散している。

 結局、ジミ・ヘンドリックスは表舞台に出てからだと、僅か実動4年という短い期間で生涯を終えてしまった。でも伝説のギタリストとして、語り草になるほど後世に名を残していて、今でも史上最高のギタリストだとして評価を与える人は実に多い。僅か27年の生涯だっただけに、急逝したのが惜しまれるミュージシャンであった。

 『Foxy Lady』を演奏するジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス


 ウッドストックの中で『アメリカ国歌』を演奏するジミ・ヘンドリックス


 ウッドストックの中で『Purple Haze』を演奏するジミ・ヘンドリックス


シルヴィー・ヴァルタンを聴く
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 私が小学生の頃だったが、姉が聴いていたレコードの中で愛らしい声で印象深い曲がある。それは姉がよく聴いていた英語のポップスではなく、英語以外の言葉で歌われていた。私は、まだ英語もかじってない小学生であったが、英語とそれ以外の言語の区別ぐらいは、その頃でもついていた。それで誰が歌っているのかと姉に訪ねるとフランスの曲だという。その曲はシルヴィ・ヴァルタンが歌う『アイドルを探せ』だった。

 1963年のフランス映画の主題歌で歌っているシルヴィー・ヴァルタンが主演した映画であるという。姉はこの映画を観たのだろうか、18歳のシルヴィー・ヴァルタンの愛くるしい笑顔と共に曲の方もヒットしたのだった。確かに当時のレコード・ジャケットのシルヴィー・ヴァルタンは愛くるしい顔をしていて、まさにアイドルであっただろう。

 シルヴィー・ヴァルタンというとフランスのシャンソン・イエ・イエ(新しいシャンソン)といわれる歌手であるが、日本ではたいへんな人気があった。だから小学生の私でも曲を覚えているのであって、いわゆる本格的なシャンソンとは一線を画していて、どちらかというとフレンチ・ポップスと呼ばれるジャンルに属するものではないだろうか。だから英語圏の曲もよくカバーしていたように思う。

 彼女は1944年にブルガリアで生まれている。だから純粋のフランス人ではないといいたいが、フランス人というものは人種が入り交ざって形成されている。でも基本的にはラテン人でゲルマン人やケルト人といった北方の民族を祖先に持つ人も含まれていて、フランス民族といったものはない。だから純粋のフランス人ではないという言い方もおかしいが、フランス人の父とハンガリー人の母との間に生まれたブルガリア出身のフランスの歌手であるというから随分とややこしい。そして、彼女が10歳の時一家そろってパリに移住し、16歳でレコーディングしてデビューしている。

 こうして歌手になったシルヴィー・ヴァルタンは、『アイドルを探せ』で一躍人気が出て、映画の通りアイドルとなるが、その映画で共演した男性歌手ジョニー・アリディと結婚するも離婚。そして夫婦で自殺未遂事件を起こしてしまう。さらに離婚後、シルヴィー・ヴァルタンは交通事故に数回見舞われ、再起不能とまでいわれたことを思い出す。でも1968年、突如として『あなたのとりこ』という曲でカムバックする。

 でもこの時のシルヴィー・ヴァルタンは『アイドルを探せ』を歌っていたときとは何もかも雰囲気が違っていて、可愛さよりも大人の女の雰囲気が漂っていて、私は違和感を覚えずにはいられなかった。その後は『悲しみの兵士』等のヒットもあり、またモーツァルトの交響曲40番のメロディにフランス語の歌詞をつけた『悲しみのシンフォニー』や、アメリカン・ポップスのカバー等もやっていた。

 最近はシルヴィー・ヴァルタンの『あなたのとりこ』が映画『ウォーターボーイズ』やCMで使われたりして、知っている若者も多いという。でも18歳で歌っていたシルヴィー・ヴァルタンも今や60歳を越えている。40年以上の時を経て、シルヴィー・ヴァルタンの容姿もすっかり変わってしまった。本当に時間の経過というものは残酷である。

 『アイドルを探せ』を歌うシルヴィー・ヴァルタン


 『あなたのとりこ』を歌うシルヴィー・ヴァルタン

 
ママス&パパスを聴く
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 私が小学生だったか、中学生だったかはっきりしないが、或る日、ラジオから爽やかなメロディと共に心地よいフォーク調の曲が流れてきて、思わず聞き耳をたてていた覚えがある。私は2度か3度聴いただけで、その曲のメロディを覚えてしまい、ハミングで旋律を繰り返していると、高校生の姉が「何で『夢のカリフォルニア』を知ってるの?」と言った。

 その時、私は、聴いていた曲がママス&パパスの『夢のカリフォルニア(California Dreamin')』だということを知った。それから間もなくのことだった。姉はさっそくママス&パパス『夢のカリフォルニア』のシングル盤レコードを借りてきて、私と一緒にその曲を聴きまくったことは言うまでもない。

 ママス&パパスは、1965年にデビューしたフォーク・ロック・グループで、男2人(ジョン・フィリップス、デニー・ドハーティ)、女2人(キャス・エリオット、ミシェル・フィリップス)の混声合唱が特徴的であった。そもそも、キャス・エリオット、デニー・ドハーティ、フィッリプス夫妻はそれぞれ別のグループにいた。でも各自活躍の場を求めてそれぞれがカリフォルニアにやって来た。そして彼等は必然的に引っ付き、誕生したグループである。

 私は最初にラジオで聴いた時の印象から、男性はともかく女性は2人共、細身の現代的な容姿をしているだろうと思って、姉が借りてきたレコードジャケットを見て思わず笑ってしまったことを思い出す。女性2人の内、1人は細くて長い髪の現代風のかっこいい外観だったが、もう1人は肥っていて、この人がこんな綺麗な声を出すのかと驚いたものである。でも、この肥った女性の声量と音域の広さがあってこそ、このグループは成り立っているのだろうと感じたものである。この人はエス・キャリオットで、通称をママ・キャスといった。当時のことであるが、ママス&パパスの出ている映像を初めて観たとき、確かに肥っていて滑稽であった。でも細身のミシェル・フィリップスとの声と巧く調和し、ママス&パパス特有の澄み切ったコーラスを聴かせてくれたものである。

 ママス&パパスは、1965年にデビューし、1966年初頭に『夢のカリフォルニア』が大ヒットし一躍有名になった。その後は、『マンデー・マンデー』が大ヒット、『アイ・ソー・ハー・アゲイン』『愛する君に(Dedicated To The One I Love)』『愛の言葉(Words Of Love)』等のヒット曲を出すが、最初のヒット曲『夢のカリフォルニア』の印象が強すぎて、私はあまり心を動かされなかった。

 結局、ママス&パパスは、色々と問題を抱え、1968年に解散してしまった。でも2年後には再結成されたが・・・・・・・ジョン・フィリップスとミシェル・フィリップスの離婚もあり、メンバーは散ってしまい、1974年には残念なことにママ・キャスが心臓発作で亡くなってしまった。一方、ミシェル・フィリップスは女優に転じ、『デリンジャー』『ヴァレンティノ』に出演して我々を驚かせた。特に『ヴァレンティノ』では、全裸になって美しい肢体を披露した・・・・・・だが、映画に出ても鼻歌一つ歌わないし、歌声を期待して観ていた者には真に残念であった。最近はアメリカでも女優業の傍らテレビ出演も多いらしいが、歌はほとんど歌っていないらしい。

 1980年代に入りママス&パパスは再々結成され、1994年に来日している。だが、その時のメンバーはデニー・ドハーティ、ジョン・フィリップスと男性はオリジナル・メンバーであったが、女性2人は変わっていた。

 今世紀に入り、2001年、ジョン・フィリップスが心臓疾患で亡くなり、昨年にはデニー・ドハーティも腎不全で死去した。これにより今、生きているのはミシェル・フィリップスのみとなってしまった。

 『夢のカリフォルニア』を歌うママス&パパス


 『マンデー・マンデー』を歌うままス&パパス


 ビートルズの『アイ・コール・ユア・ネーム』を歌うママ・キャス・エリオット