uncleyieのア・デイ・イン・ザ・ライフ
趣味を中心に人生の日々を綴ります。時にはボヤくこともあります。
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uncleyieと申します。。ここでは趣味を中心に色々と書いていきたいと思います。音楽、映画を中心に、本、美術からスポーツ、競馬、芸能、時には時事問題まで、幅広い分野において話題に触れるつもりです。  またコメントなど頂ければ幸いです。当ブログはリンクフりーですのでよろしくお願いします。    なお、誹謗、中傷、冷やかしめいたコメントは遠慮なく削除させてもらいます。ご了承ください。

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ヘレン・メリルを聴く
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 私は高校生の頃、モダン・ジャズを聴きに1人で喫茶店に出入りしていたが、ロック好きの仲間には黙っていた。何故なら、彼らはロック以外の音楽には何の興味を示さないからであって、ロック以外にシャンソンもカンツォーネもラテンもフォークもクラシックも分け隔てなく聴いていた私は、皆には内緒でジャズ喫茶に通っていたものだ。当時、ロックしか聴かない仲間にジャズを聴こうなんていっても聞く耳も持たなかっただろうから、誰も誘わなかったというのが本音なのであるが・・・・。

 暗い店内はネクタイ姿のサラリーマンがいたり、長髪に髭を生やし分厚い哲学書を持った大学生風の若者がいたりして、高校生の私には少し刺激が強かったりしたが、彼らの仲に混じって一端のジャズ通気取りで眼を瞑ってスピーカーから流れるアフター・ビートにしびれていたものである。

 ただその頃は、数多いジャズ・ミュージシャンの中でもマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー等に代表されるように、主にスモール・コンボを聴くのが流行っていて、ビッグ・バンドといったスタイルのジャズを誰も聴いていなかったように思う。そして、ジャズ・ヴォーカルも何故か、聴かれることは滅多になかったようだ。

 ところがである。或る日、ジャズ喫茶で耳にしたハスキー・ヴォイスに私は心を打たれたのだ。

You'd be so nice to come home to.
You'd be so nice by the fire
While the breeze on high
Sang a lullaby
You'd be all that I couud desire

 女性ヴォーカルの声が流れていた。何とも艶かしい声で、10代の少年にはこの声は刺激が強かった。歌っている人は誰・・・・・・・。曲よりも歌手の名前を知りたかったので、隣に座っているサラリーマン風の20代だろうと思えるタバコを吸っていた男性に聞いた。すると「ヘレン・メリル」という答えか返ってきた。私はその場で、ヘレン・メリル、ヘレン・メリル、ヘレン・メリルと忘れないように呟きながらその名前を繰り返した。

 それ以来、ヘレン・メリルの歌う『You'd be so nice to come home to』という曲が気に入った。また私の中では女性の歌うジャズ・ヴォーカルといえば、この曲が真っ先に出てくるようになってしまった。

 ヘレン・メリルは1930年の7月21日、ニューヨークの下町ブロンクスにクロアチア人移民の子として生まれ育つ。15歳で早くも歌手として活動し、ニューヨークのクラブで歌っているときにマイルス・デイヴィス、J・J・ションソン、バド・パウエルと共演する。17歳でアーロン・サクスと結婚(その後に離婚)。1954年には天才トランペッターのクリフォード・ブラウンとアルバムを録音する。

 実はこの時のデビュー・アルバムが上の写真にあるアルバムである。録音されている曲は7曲で、『Don't Explain』『You'd be so nice to come home to』『What's New』『Falling in love with love』『Yesterdays』『Born to be blue』『'S Wonderfull』

 これらはジャズでお馴染みの曲だが、ヘレン・メリルが歌うと何か艶っぽい。この時、クインシー・ジョーンズが編曲して、ブラウニーと愛称のあるクリフォード・ブラウンがトランペットを吹き、オスカー・ペティフォードがベースを担当した。そしてこのアルバムは評判を呼び、ヘレンの歌声は「ニューヨークのため息」と評された。それ以来、『You'd be so nice to come home to』は、ヘレン・メリルの代名詞的な曲になってしまった。だが、その2年後、若きトランペッター、クリフォード・ブラウンは事故死して、離婚したヘレン・メリルも一度、現役を退く。ところが1966年に来日。そして、5年間ほど日本に滞在してアルバム製作やラジオの仕事をこなしたという。

 ヘレン・メリルは、その後、音楽の幅を広げて色んなジャンルの曲をむ歌うようになり、まもなく78歳になろうとしているが、ステージを時々こなすという。ただ、今でも若い頃のような艶かしいハスキー・ヴォイスで歌っているのかどうかは知るところではないが・・・・・・・・・。


ハービー・ハンコックのアルバムを聴く・・・・・『処女航海』
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 ハービー・ハンコックは1940年生まれだから今年で68歳ということになる。でもジャズの世界で言うと新しい世代に入る。それだけに何かをやろうとする意欲が現れているが、このアルバム『処女航海(Maiden Voyage)』なんかはジャズという潮流の中で変革期にあったといえるものである。録音は1965年と新しく、これまでの一曲一曲が独立しているのではなく、アルバム・タイトルの通り海をテーマにしていて、アルバム全体で海の物語を形成している。

 最初の曲はアルバム・タイトルと同じ『処女航海』で、船出の情景を表現していて、2曲目以降が『The Eye Of The Hurricane』『Little One』『Survival Of The Fittest』『Dolphin Dance』であって、それぞれが独立している曲でありながら、全体的に海のイメージを描写している。つまりアルバムのテーマに沿って曲が構成されている。これは時代の流れかもしれないが、単なる曲の寄せ集めのような、これまでのアルバムとは雰囲気も違っていて、とめどもなく管楽器がメロディを奏で、ハービー・ハンコックのピアノが彩りを加えるが、音色そのものは暑苦しさが無くサラッとした印象さえ受ける。人によっては60年代を代表するジャズだという人もいて、新主流派と呼ばれ、ピアノのハービー・ハンコックをはじめとしてフレディ・ハバード(トランペット)、ジョージ・コールマン(テナー・サックス)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムズ(ドラムス)といった新時代のジャズの流れを汲む面々が顔を揃えて、このアルバムは録音されたのである。つまり1960年代の中頃、マイルス・ディヴィスのグループにいたメンバー達で形成されているのである。だから各自が技を競い合っているようで、実は個人個人のプレイが積み重なって全体の雰囲気を構成しているといえばいいだろうか・・・・・。とにかく60年代を代表するジャズ・アルバムである。

 ところでハービー・ハンコックという人であるが、この人は7歳からピアノを本格的に始め、11歳でアメリカ屈指のオーケストラであるシカゴ交響楽団と共演したという。当時のシカゴ交響楽団というと、ラファエル・クーベリックが音楽監督として就任していた時代で、後任のフリッツ・ライナー時代ほどではないが、アメリカの5大オーケストラに数えられていた。そういったピアノの才能に恵まれていたハービー・ハンコックが高校時代からジャズに目覚め、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスの影響を受け新しいジャズを模索していたものであるが、僅かに弱冠20歳でプロ・デビューしている。また一方では音楽と電子工学の分野で博士号を持つ秀才なのである。

 ハービー・ハンコックはインテリ故に研究心旺盛で、絶えず新しい試みを追求していたといえよう。1963年から68年まではマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして活躍し、作曲家としても『ウォーターメロン・マン』『カンタロープ・アイランド』等を残している。ストレート・アヘッド・ジャズ、フュージョン、ファンクなどで先端を走りジャズ・ロックなるものを開拓していたのもハービー・ハンコックである。彼は最も影響を受けた作曲家の中に現代音楽の旗手バルトークがいて、無調的な和声を含んだジャズを取り入れようとしていたのではないかとも思えるし、ジャズの世界だけではなく色んな音楽の要素を自己の音楽の世界に内包しようと絶えず挑んでいるようでもある。

 最近のハービー・ハンコックは映画『ラウンド・ミッドナイト』の音楽監督としてアカデミー賞作曲賞を受賞したり、2008年のグラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞するなど、70歳近くなっても才能を枯れさせてないから驚愕する。まさに挑み続けるミュージシャンである。

『ウォーターメロン・マン』でマイルス・デイヴィス(トランペット)と共演するハービー・ハンコック


ウェス・モンゴメリーを聴く
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 ウェス・モンゴメリーのギター演奏を聴くと心地よい。彼の特徴であるオクターブ奏法が妙に耳障りが良いのである。音色は太くて柔らかい。エレクトリック・ギター独自のギンギンした音ではなく、親指一本でピッキングしているためか包み込むような音色が心にまで響いてくる。

 ジャズ・ギターというと今ではウェス・モンゴメリーが第一人者であるが、彼はすでに1968年に亡くなっている。でもその後、ジャズ・ギターというジャンルで、彼以上の名声を得た人はいない。もっとも彼の死後は、ジャズ・ギターというよりもフュージョンという枠組みで扱われることが多くなったからかもしれないが、その過渡期に彼は存在した。だからウェス・モンゴメリーのイージー・リスニング風のジャズがポピュラー・ファンにも受け入れられ、その後、音楽のクロスオーバー、各種の融合があってフュージョンへと受け継がれていくのである。だからウェス・モンゴメリーをジャズ・ミュージシャンであると思ってない人もいて、昔からあるようなビッグバンド・ジャズとは一線を画している。それはジャズ・ギターというものがあまりジャズの世界において花形の楽器ではなかったからであろう。戦前のジャズというのは管楽器が中心で、その後、ビッグバンドからコンボへと移り変わっていくにしたがって、色々な楽器が用いられるようになるが、ジャズ・ギターというものは、トランペットやテナー・サックス、ピアノほどメジャーな楽器ではなかった。そんな中でジャズ・ギターというものの創造性を大いに引き出した人がチャーリー・クリスチャンなのである。そのチャーリー・クリスチャンが影響を与え、多くのジャズ・キダリストが現れるが、50年代末期になってようやく現れたオクターブ奏法のウェス・モンゴメリーこそが、ジャズ・ギタリストの最後の天才と言えるかもしれない。

 ウェス・モンゴメリーは1923年に生まれているが、彼が有名になるのは1950年代末期のことである。独学でギターをマスターし、30代半ばまで出身地のインディアナポリスで活動する。だが50年代末期にウェスト・コーストへ進出し、サックス奏者のキャノンボール・アダレイに見出されレコーディングし、傑作『インクレディブルー・ジャズ・ギター』を発表。ジャズ・ギター奏者として一躍、有名になり1968年に亡くなるまで活躍の期間は短かったが、その後のジャズ・ギター及びフュージョンの奏者に与えた影響は大きい。

 またウェス・モンゴメリーはジャズ・ギタリストであるが、ポップス曲の録音が非常に多い。彼はジャズという音楽に拘っていたかどうか知らないが、ポップスとジャズの間で行ったり来たりしていて、大勢のポップス・ファンの心をも掴んだ。私が知っているだけでもフォーク・ソングの曲『花はどこへ行った』だとか『スカボロー・フェア』をイージー・リスニング風に演奏している。そして、彼の得意曲の一つにビートルズの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』がある。これらの曲を軽いタッチで弾きこなしていて、時々、これがジャズなのかなあという錯覚に囚われるが、彼自身は「私がやっていることのコンセプトは、常にジャズなのだ」と語ったという。なるほど、彼が言うからジャズなのだろう。でも20世紀の商業音楽というのは、絶えず変化してきたのだから、ロック、フォーク、ジャズ、フュージョン、ボサノヴァ・・・・あまりジャンルごとに枠の中に閉じ込めて、理屈を捏ねるのはよそう。どんな音楽でもいいものはいいのだから・・・・。


 『ラウンド・ミッドナイト』を弾くウェス・モンゴメリー 
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ベニー・グッドマンを聴く
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 数年前、『スウィングガールズ』という山形の女子高生ばかりで形成されているビッグバンドの成長を描いた映画があった。その中で彼女たちは『A列車で行こう』を盛んに演奏していたが、もう一つ映画の挿入曲として欠かせない曲があった。それは『シング・シング・シング』である。『シング・シング・シング(Sing Sing SIng)』は、スウィング・ジャズを代表する曲で、よく演奏されるが、女子高生が演奏する『シング・シング・シング』というのも珍しくて、映画のそのシーンを見とれていた覚えがある。

 ところでスウィング・ジャズの王様といわれる人物を知っているだろうか・・・・。その人はベニー・グッドマンという白人のクラリネット奏者である。ベニー・グッドマンは、1909年にシカゴの洋服の仕立て屋の家に生まれ、兄弟が多く暮らしも豊ではなかった。でも両親の理解と兄姉の援助もあって、早くからクラリネットを吹いていた。12歳ではミシガン湖遊覧船のバンドに加わっていたから、かなり早熟であったと思える。16歳では著名なバンドに入団し、19歳で独立しニューヨークで演奏活動を行なうようになり、25歳になると自分のバンド、ベニー・グッドマン楽団を結成するのである。そして、彼は次第にキング・オブ・スウィングと呼ばれるようになっていた。

 スウィングというのはジャズと同義語であるが、スウィングの王様なんていわれるまでベニー・グッドマンの名声は確立されるが、それまでは苦労の連続あった。ベニー・グッドマンは団員の給料、経営上のゴタゴタに辟易していたと見え、彼を支えている2人の後援者に愚痴をこぼす始末である。その頃、彼のバンドはホテルやダンスホールでのBGMとして演奏していたのだが、ロサンジェルスのパロマーで行った時の演奏が、新しいダンス音楽だとして絶賛され、突如としてベニー・グッドマン楽団のレコードが売れ出したのである。こうしてベニー・グッドマンは、1938年にジャズ・ミュージシャンとして初めてカーネギー・ホールでコンサートを開くまでになったのである。この時に、ジャズはようやく世間から認知されたといってもいい。

 ベニー・グッドマンは、全米の注目を浴びる中、『シング・シング・シング』を演奏する。この時の演奏がよほど人々の印象に残ったのか知らないが、『シング・シング・シング』はベニー・グッドマンの代表曲となってしまった。だから今では、『シング・シング・シング』というと、ベニー・グッドマン楽団だと思うようになったのである。でもこの曲は、1936年にルイ・プリマによって作曲された曲である。スウィングしなけりゃジャズじゃないとばかり、スウィングしまくる曲であるが、非常に軽快な曲でダンス音楽から発展したといわれるジャズも変革期にあったということだろう。そのような1930年代、ベニー・グッドマンがバンドリーダー兼クラリネット奏者として、知名度を上げていく頃、ジャズもようやくBGMから聴かせる音楽として確立されていくのであった。このようにベニー・グッドマンは、ただのクラリネット奏者ではなく、黒人を雇った最初のバンドとして賞賛されていく。つまりベニー・グッドマンは人間としての大きさも考慮され、彼をスウィングの王様と呼ぶ人がいたのだろう。彼はまた、交友関係も広く、バルトークと親交があり、クラシック音楽にも造詣が深く、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』を演奏した録音も残されている。また、1936年にはクァルテットも結成し、スモールコンボの先駆けをやっている。このようにベニー・グッドマンは、ジャズへ対する興味と探究心は絶え間なく続き、何時も新しいことへの取り組みを模索していた。・・・・・日本では、『シング・シング・シング』を演奏する時以外、あまり取りざたされないベニー・グッドマンであるが、やはりジャズの歴史に輝く巨人なのである。

 『シング・シング・シング』を演奏するベニー・グッドマン楽団。

 
マイルス・デイヴィスを聴く
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 マイルス・デイヴィスという人は、絶えずジャズの方向性を模索し続け、時代の先取りをしたジャズ界の巨人といえるだろう。1926年イリノイ州に生まれ、すぐにセントルイスへ転居。父は歯医者、母は音楽教師と黒人としては非常に裕福な家庭で育った。13歳の誕生日にトランペットを買ってもらってから次第にジャズへのめりこんで行く。高校でジャズ・バンドを結成。この頃にチャーリー・パーカーの生演奏に遭遇して衝撃を受ける。高校を出るとすぐにニューヨークのジュリアード音楽院に入学、まもなくチャーリー・パーカーの楽団に加わり頭角を現す。さらには名アレンジャーのギル・エヴァンスと出会い9人編成のリハーサル・バンドを結成。商業的には成功しなかったが、アンサンブルは見るべきものがあって、時代の多くのジャズメンに模倣されることとなる。これらは『クール・ジャズ』と呼ばれ、ウェスト・コースト・ジャズなどは、この流れであろう。

 クール・ジャズとは、それまでの既存のスウィング・ジャズともビバップとも違う新しいジャズの印象をもたらすものであった。マイルス・デイヴィスは1950年代になるとビル・エヴァンス、ジョン・コルトレーン等とモード手法によるアドリブを確立し、このスタイルは60年代以降のジャズ・ミュージシャンに多大な影響を与えることとなる。さらには60年代末期、ロックの技法を取り入れ、複雑なリズムを駆使した演奏を試みて、フュージョン世代にまで刺激を与えている。このようにマイルス・デイヴィスというのは、ジャズ界のみならず、現代音楽の中でも大きな輝きを放っている巨大な一等星なのである。

 マイルス・デイヴィスのトランペット奏法というのは、ディジー・ガレスビーのような卓越したテクニックは持ち合わせてないが、中音域を生かした独自のトーンで、聴き手を夢中にさせる。マイルス・デイヴィスは数々の名演が残されているが、このアルバムはオムニバスのようなものである。だからといっては何だが、あまり統一感はないが、彼のミュージシャンとしての真骨頂が垣間見える。

 収録曲は『Autumn Leaves』『Well You Needn't』『Dear Old Stockholm』『I Wanted For You』『Love For Sale』『How Deep Is The Ocean』『Tempus Fugit』『Yesterdays』『Kelo』『Enigma』『Somethin' Else』『It Never Entered My Mind』である。『サムシン・エルス』以外は他人の曲であるが、アルバムの頭の曲『枯葉』を聴いただけで、マイルス・デイヴィスがただならぬトランペット奏者であることが解る。この『枯葉」は、誰もが知っているメロデイなのに、何故か新鮮に聴こえる。ミュートを駆使した実にクールな演奏で、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイを完全に食っている。ちなみにピアノはハンク・ジョーンズで、ベースはサム・ジョーンズ、ドラムスはアート・ブレイキーである。

 また『サムシン・エルス』はマイルス・デイヴィス本人の曲の中でも優れたもの。キャノンボール・アダレイとのサックス、マイルス・デイヴィスのトランペットかけ合いが実に面白い演奏である。

 ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)と共演した時のマイルス・デイヴィス。曲は『So What』



スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルトを聴く
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 1963年3月18日、19日の両日、アメリカの音楽シーンにとって画期的な日となった。それは、このアルバム『ゲッツ/ジルベルト』が゜録音されたからである。当アルバムはスタン・ゲッツ(テナー・サックス)、ジョアン・ジルベルト(ギター、ヴォーカル)、アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)、トミー・ウィリアムス(ベース)、ミルトン・バナナ(パーカッション)、アストラッド・ジルベルト(ヴォーカル)のメンバーで録音されたアルバムであるが、ジャズ・メンのスタン・ゲッツとボサノヴァの創始者の一人であるジョアン・ジルベルトが凌ぎを削り、アメリカで大ヒットとなった。これによりボサノヴァが世界的に広まるきっかけとなったアルバムである。

 だからこのアルバムをジャズというカテゴリーに収めてしまうのには無理があるが、スタン・ゲッツというジャズのテナー奏者が参加しているので、一応はジャズのカテゴリーに入れてみた。でもこのアルバムを聴く限りボサノヴァの色が強い。でもジャズとボサノヴァの融合と感じてもいい訳であり、要は聴く側の取り方であろう。

 最近はボサノヴァと言っても、往年の人気はなく、どのような音楽なのか知らない人の方が多いだろう。思えば1960年代の日本は、ボサノヴァ・ブームであった。最も日本人に受けたのがセルジオ・メンデスだうろけども、その流行の始まりは、このアルバムに入っている最初の曲『イパネマの娘』のヒットによってもたらされたのである。独自のリズムとクールな感性が調和した心地よい曲で、ジョアン・ジルベルトとアストラッド・ジルベルトが唄っている。

 そもそもボサノヴァというのは、1950年代中頃にブラジルのリオデジャネイロに在住しているミュージシャンによって生まれた音楽で、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、ヴィニシウス・ジ・モライス、ナラ・レオン、ロベルト・メネスカル、バーデン・パウエル等が中心的人物である。彼等は元々、ブラジルでジャズを演奏していた。それがやがて、独自のサウンドを編み出したのである。それがジャズ・サンバでありボサノヴァである。

 一方、戦後間もなくからトミー・ドーシー楽団、ベニー・グッドマン楽団でサックスを吹いていたスタン・ゲッツが、クール・ジャズ奏者として頭角を現し、やがてヨーロッパ渡って行ったが、アメリカへ帰国するや否や、新しい音楽であるボサノヴァを知ることとなる。それによってスタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』を録音してしまう。こうしてスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトが一緒に共演してアルバムを作ることとなるが、簡単には行かなかったようだ。

 この『ゲッツ/ジルベルト』を録音する間、ジョアン・ジルベルトはボサノヴァを理解しないスタン・ゲッツを罵ったという。また強引にレコーディングに参加したジョアンの夫人アストラッド・ジルヘルトに対し、スタン・ゲッツは「アストラッドは飛び入りだから、彼女に印税を払わなくていい」と言ったり、とにかく平穏のまま終わらなかったという。でも才能と才能がぶつかり合い、ここに傑作なアルバムが完成したのである。

 このアルバムは日本でも人気を呼び、ここに一大ボサノヴァ・ブームが起きたのだ・・・・。でも1970年代に入り、そのブームにも陰りが見え、今やボサノヴァも消えかかろうとしている。でも時々、ボサノヴァを聴くがも何故か心地よく耳障りもいい。ディキシー・ランド・ジャズのような暑苦しさもく、何処か都会的でクール・ジャズのような趣がある。やはりボサノヴァは、ジャズではないが、ジャズに近い音楽だということはいえるだろう。

アストラッド・ジルベルト(ヴォーカル)、スタン・ゲッツ(テナー・サックス)による『イパネマの娘』


 ジョアン・ジルベルト(ギター、ヴォーカル)、アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)による『イパネマの娘』